尾道の街並みと林芙美子・・・
「花の命はみじかくて、苦しきことのみ多かりき」とは、
日本の小説家 林 芙美子の言葉。彼女は、尾道高女を卒業後上京し、銭湯の下足番や工員、カフェの女給などを転々としながら詩や童話を書いていた。
そんな半生を下敷きにして書いた作品が、後のベストセラーとなった『放浪記』であるのは有名な話。
「放浪」と言えば、ノマド。「ノマド」と言えば私の人生最後の『夢』
そんな、こんなを事を思いながら、
本日も中国新聞天風録の「読み・書き・タイピング」で
こんなこと教えてもらいました。
【 本日(2021.06.28)の天風録 】
70年前(ねんまえ)の きょう、元(もと)教師(きょうし)の 家(いえ)で 電話(でんわ)が 鳴(な)った。「つたへ 来(き)て こゑは 受話器(じゅわき)に ひびけども 応(おう)へんとして 語(かたらう)の ととのはず」。作家(さっか)と なった 教(おし)え子(ご)の 死(し)の 知(し)らせに、声(こえ)を 失(うし)った さまを 歌(うた)に した。林 芙美子(はやし ふみこ)の 女学校(じょがっこう)時代(じだい)の 恩師(おんし) 今井 篤三郎(いまい とくさぶろう)さんで ある
▲ 芙美子(ふみこ)の 命日(めいにち)が 巡(めぐ)って きた。作家(さっか)の 文学的(ぶんがくてき)才能(さいのう)は、多感(たかん)な 時期(じき)を 過(すご)した 尾道(おのみち)で 育(はぐく)まれて いる。歌人(かじん)だった 今井(いまい)さんから 毎日(まいにち)、詩(し)の 添削(てんさく)など 指導(しどう)を 受(う)けた という。上京(じょうきょう)後(ご)も 恩師(おんし)と 慕(した)い、数(かず)多(おお)くの 手紙(てがみ)を 書(か)き 送(おく)って いる
▲ やはり 郷士(ごうし)の 作家(さっか) 井伏鱒二(いぶせますじ)との 講演会(こうえんかい)を、女学校(じょがっこう)で 開(ひら)ける ように 依頼(いらい)も したようだ。だが 学校側(がっこうがわ)が 許可(きょか)しなかった らしい。「子供(こども)が 親(おや)の ところで しゃべりたいのは 当(あ)たり前(まえ)ぢゃないで せうかね」。役人(やくにん)仕事(しごと)への 憤(いきどお)りを つづった 手紙(てがみ)も 残(のこ)る
▲「旅(たび)が 古里(ふるさと)で ある 私(わたし)」。芙美子(ふみこ)は 「放浪記(ほうろうき)」に 記(き)して いる。しかし 手紙(てがみ)からは 恩師(おんし)や 女学校(じょがっこう)、尾道(おのみち)を 「親(おや)の ところ」、つまり 古里(ふるさと)と 懐(なつ)かしむ 心情(しんじょう)も うかがえる
▲ 校庭(こうてい)に 生徒(せいと)ら かたよりて あぐる こゑ ちびすけ 芙美子(ふみこ)が 笑(わら)わせし なりー。死去(しきょ)の 報(ほう)が 届(とど)いた 後(あと)、今井(いまい)さんは 校庭(こうてい)や 生徒(せいと)らに 芙美子(ふみこ)の 面影(おもかげ)を 見(み)た ようだ。それは 今(いま)も 尾道(おおみち)を 歩(ある)けば、きっと 感(かん)じ られる。( ー 引用 ー )
本日の天風録では、いろいろなことを教えてもらい
とても良い学びとなりました。
最後に、あなたに質問です。
あなたは、林芙美子を知っていましたか?
ちなみに、私!
林芙美子のこと名前こそ知っていましたが、
それ以上のことは知りませんでした。
本日をきっかけに、林芙美子の
林芙美子放浪記復元版 [ 林芙美子 ] を
今の自分と照らし合わせながら読んでみようと思います。