原爆症認定集団訴訟の全国原告団長「泣き虫の闘士」・・・
その山本英典さんのことについて
学び・教えてもらいました。
【 本日(2021.08.26)の 天風録 ↓ ↓ ↓ 】
怒(いか)りに 震(ふる)えながら 国(くに)を 批判(ひはん)した。苦(くる)しみをさらす 被爆者(ひばくしゃ)の 思(おも)いを 代弁(だいべん)しては こらえきれずに 涙(なみだ)した。泣(な)き虫(むし)の 闘士(とうし)。そんな姿(すがた)ばかりが 思(おも)い出(だ)される。原爆症認定集団訴訟(げんばくしょうにんていしゅうだんそしょう)を 全国原告団長(ぜんこくげんこくだんちょう)として 率(ひき)いた 山本 英典(やまもと ひでのり)さん。今月(こんげつ)8日(ようか)に 88歳(さい)で 亡(な)くなった
▲ 原爆(げんばく)の日(ひ)の 9日(ここぬか)は 絶対(ぜったい)嫌(いや)だったろうと 仲間(なかま)は 言(い)う。12歳(さい)のとき 長崎(ながさき)で 被爆(ひばく)。上京(じょうきょう)して 大学(だいがく)を 卒業後(そつぎょうご)、政党機関紙(せいとうきかんし)の 記者(きしゃ)などを 経(へ)て 被爆者運動(ひばくしゃうんどう)に 身(み)を 投(とう)じる
▲ 病気(びょうき)は 原爆(げんばく)の せいだとして 援護(えんご)する 原爆症認定(げんばくしょうにんてい)。その基準(きじゅん)の 実態(じったい)は 切(き)り捨(す)ての 物差(ものさ)しだった。被爆者(ひばくしゃ)は 老(お)いを 深(ふか)め、自身(じしん)も 60歳(さい)を 過(す)ぎ 大病(たいびょう)を 患(わずら)った。集団訴訟(しゅうだんそしょう)を 貫(つらぬ)いたのは 原爆(げんばく)で 失(うしな)われた 命(いのち)、暮(く)らし、心(こころ)への 国家補償(こっかほしょう)を 求(もと)める 信念(しんねん)から だろう
▲ こうと決(き)めたら 一直線(いっちょくせん)。東京(とうきょう)・八王子(はちおうじ)の 霊園(れいえん)に 共同墓(きょうどうぼ) 「原爆被爆者之墓(げんばくひばくのはか)」を 建立(こんりゅう)したときもそう。後々(のちのち)の 管理(かんり)を 心配(しんぱい)する 声(こえ)も あったが、「差別(さべ)に さらされ、必死(ひっし)に 生(い)きた 被爆者(ひばくしゃ)が 安(やす)らかに 眠(ねむ)れる 場所(ばしょ)に」と 押(お)し切(き)った
▲ 身寄(みよ)りが なかったり 合葬(がっそう)を 望(のぞ)んだりした 被爆者(ひばくしゃ)と 家族(かぞく)52人(にん)が 眠(ねむ)る。〈 われら/ 生命(いのち)もて/ ここに記(き)す/ 原爆(げんばく)/ 許(ゆる)すまじ 〉。傍(かたわ)らの 碑(ひ)に 刻(きざ)まれた 言葉(ことば)の ごとく 生(い)きた 山本(やまもと)さんの 遺骨(いこつ)も モミジの 色(いろ)ずく頃(ころ)、納(おさ)められる。( ー 引用 ー )
8月8日88歳で亡くなった
原爆症認定集団訴訟の全国原告団長として率いた
山本英典さんの信念のすごさを感じると共に、
どんなに苦しいことや辛いことがあっても
自分自身を信じ信念をもって行動していく大切さを学びました。
私が仮に88歳まで生きれたとして35年。
残りの人生、信念をもって行動していきます。
あなたは、本日の天風録で
何を感じ、
何を学び、
そして、
どう行動して行こうと思いましたか?
本日は以上です。