「原爆スラムと呼ばれたまち」のヒロシマ原人たち・・・
こんなことを学び、考えてみました。
【 本日(20201.08.07) の 天風録 ↓ ↓ ↓ 】
「ヒロシマ原人(げんじん)」という 言葉(ことば)は 死語(しご)だろうか。全人生(ぜんじんせい)を 懸(か)けて 原水爆(げんすいばく)を 告発(こくはつ)した 市井(しせい)の人(ひと)たち。20年前(ねんまえ)、亡(な)き 先輩(せんぱい)記者(きしゃ)が 用(もち)いていた。広島折鶴(ひろしまおりづる)の会(かい)世話人(せわにん)、河本 一郎(かわもと いちろう)さんの 追悼記事(ついとうきじ)だった
▲ いつも 荷台(にだい)に 箱(はこ)を くくり付(つ)けた 自転車(じてんしゃ)を 押(お)し、帽子(ぼうし)に 作業服(さぎょうふく)。被爆者(ひばくしゃ)で 「原爆(げんばく)の子(こ)の像(ぞう)」の 生(う)みの 親(おや)だった。もっと 古(ふる)い 記事(きじ)だと、住(す)まい 兼(けん)事務所(じむしょ)は 足(あし)の 踏(ふ)み場(ば)も ない 6畳一間(ろくじょうひとま)。妻(つま)が 内職(ないしょく)の ミシンを 踏(ふ)む 傍(かたわ)らで 少年少女(しょうねんしょうじょ)は 鶴(つる)を 折(お)る。「子(こ)どもを 利用(りよう)して いる」と 中傷(ちゅうしょう)された ことも
▲ 旅(たび)立(た)って 35年(さんじゅうごねん)になる 「原爆一号(げんばくいちごう)」吉川 清(きっかわ きよし)さんも、「原人(げんじん)」か。広島大(ひろしまだい)本部跡地(ほんぶあとち)の クリップ・ヒロシマに、きょうまで 吉川(きっかわ)さんの 土産物(みやげもの)店(てん)が 再現(さいげん)されている
▲ 自(みずか)らの ケロイドを 内外(ないがい)の 観光客(かんこうきゃく)に さらし、原爆(げんばく)ドーム 近(ちか)くで 商(あきな)いを した。「平和屋(へいわや)」と たたかれても 屈(くっ)せず、晩年(ばんねん)は 米空母(べいくうぼ)の 核(かく)持(も)ち込(こ)みに 怒(いか)り 心頭(しんとう)だった という。変(か)わり者(もの)と された 人(ひと)こそ、熱(ねつ)を 帯(お)びていた 時代(じだい)だった
▲ この夏(なつ) 「原爆(げんばく)スラムと 呼(よ)ばれた まち」と 題(だい)した 一冊(いっさつ)が 世(よ)に 出(で)た。やむなく 爆心地(ばくしんち)近(ちか)くの 川土手(かわどて)に 住(す)み着(つ)いた 人(ひと)たちの 詳細(しょうさい)な 記録(きろく)。50年前(ねんまえ)に 訪(たず)ね 歩(ある)いた 著者(ちょしゃ)たちも きっと、ヒロシマの 「地熱(ちねつ)」に 触(ふ)れて いる。あの季節(きせつ)に 学(まな)ぶ 夏(なつ)でも ある。( ー 引用 ー )
被爆者で「原爆の子の像」の生みの親だった、河本一郎さんや
「原爆一号」と呼ばれ、自らのケロイドを内外の観光客にさらしながら、
原爆ドーム近くで商いをしていた、吉川清さんたちの「想い」に寄り添うと、
どんなに辛く、情けなく、腹立たしい思いで
遣る瀬無い気持ちだったのだろうかと
思うと
改めて、
「平和」のありがたさに感謝する次第です。
あなたは、もし平穏な日常が自分に全く非のない出来事により、
急に壊されたらどんな気持ちになりますか?
「原爆の日」を機に
相手への想いに寄り添っていけるように行動していきたいものです。